つれづれなる侭に⑴ 

平成20年8月20日 晴

朝、弘子さんが福善寺さんの御見舞を取りに来て、11時頃迄色々話をしておりました。綺麗なお花も貰い、早速に仏花を替えさせて貰いました。お昼からこそこそと廊下の周辺を片付けておきました。少々気分が悪く4時頃迄休んでおりましたが、夜には明日の受診の用意を致しました。

久方振りに長浜の前田さんが見えて、梨を5ヶ頂きました。とても元気そうでしたが、お兄さんのお世話をなさっているらしく感心致しました。

夜、京都の一枝さんが喜んで、お礼の電話を下さいまして、やれやれと思いました。二人とも楽しい生活をされておられ結構です。しして、感謝の生活をされているのが感心致しました。

台風21号による深刻な被害についてのメールを再掲

ご無沙汰いたしております。
 
みなさまにおかれましては自適で穏やかにお過ごしのこととお慶び申し上げます。
 
さて、当月4日、ふる里海津の町は、午後2時30分ごろから、台風21号の強風圏内に入り、推定毎秒50メートル、或はそれを越えたのではないかと思われる風が湖水を巻き上げて塊となって襲い掛かりました。4時ごろまで続きましたが旧中小路町といわれ、ランドマーク的存在である魚冶さんの浜の料亭・湖里庵は、浜側の戸のガラスを破り入りこんだ猛烈な風が室内を蹂躙し、屋根を持ち上げ周囲100メートルの自動車、家屋を損傷させました。コンクリート電柱も5本が倒壊。中ノ川の東の家屋の屋根が小学校の校舎にまで吹き飛ばされ、学舎に激突、教室のほぼすべてのガラスを破ってしまう惨状となりました。
写真は添付ファイルでは重いのでは、と思いましたので、下記のアドレスに纏めました。「写真14枚 云々」のところをクリックしていただければ開きます。一覧の写真をクリックしていただければ拡大します。
 
 
海津の東、田中君宅も結構な被害の様子で、後片付けを奥方であるN君の妹さんと一生懸命でした。
西浜は誓言寺さんの浜の松の大木が同寺の山門を掠めた程度、民家は瓦の破損はあるものの、外部から見る限りでは大凡平穏な感じです。
海津三区は昨日の夜に電気系を復旧されましたが、開田はどうでしたか。
 
7-8月、あまりに暑く、温泉たまごになる寸前まで体温が上昇し、一応9月まで生き延びられ喜んでいた矢先の惨事に、これらを平成に全部パックし、次の「君が代」に引き継ぎのない事をねがうのみです。
 
松本 忠司 拝

「歴史街道をたどる 121 湖の道 海津」(京都新聞滋賀版2018年9月2日)について

「----大谷吉継が、中ノ川を新たに開削して奥田湖に船を停泊できるようにした----」

 ①「東町 / 里老語云 古ヘ此町ニ川アリ 邑後ノ沼水ヲ湖ニ注グ 東山ノ麓ヨリ五六十間許西南也。大谷氏中ノ川ヲ掘玉フ 後其川跡人家トナリト云々」

②「中村町ト中小路町トノ間ニ新川ヲ掘テ 沼水譜ヲ湖ニ注キ 其傍ニ宅地ヲ築キ 家臣ヲ守ラシム 今其宅地ヲ殿屋鋪ト云 川ヲ中ノ川ト号ス」(谷田家所蔵『閑窓随筆』「一 地理」の内「江州高島郡村落地理考」の海津東庄の項より)

 大谷形部少輔による海津湊に係る土木工事は ① 清水谷近辺の山々ヲ源流として奥田沼などの湿地帯を形成し、東町の中心部を経て湖に注ぐ「清水川」を堰き止め、その沼水を西内沼に誘導し、そして、② 巨大化した西内沼に湖からの大型船舶の出入りが可能な運河を開削(中ノ川)したことです。

「その後、加賀藩がこの地を領することになり、本格的に整備された」

この工事によって海津湊はインフラとしては完成の域に達し、加賀藩が本格的に整備したという記録を知りません、と云うよりもこれらを加賀藩に出入りの磯源など商人が積極的に活用した、という事ではないのでしょうか。「この地」とは海津三町(東町、中村町、中小路町)を指すのであれば、それは誤りです。加賀藩の領した地はその内の西中村町を除く中村町のみです。

「その場所(マキノ東小学校)に、加賀藩海津屋敷が置かれ」

この「殿屋鋪」に加賀藩が屋敷を構えたことはありません。中ノ川を挟む西中村町と中小路町は幕府直轄、大和郡山の柳沢家にと変遷しましたので、加賀藩の何れの施設等も置かれることはありえませんでした。中村町の旧海津村役場跡に、それはありました。

なお、金丸又右衛門は近江に二万石余を領し、西与一左衛門は確か二百俵余の下級官僚にすぎません。西と金丸が「ともに」と表現されるのであれば、当時のリアルとはかけ離れています。

古川幸太郎さんの短歌(京都文芸より)

    こぼれたる種より生えし朝顔に細竹立てて蔓巻くを待つ        2017.8.21

    かぶりつく西瓜に頬を濡らしつつ里帰りの児は口もきかずに 2017.9.4

    集落の小さき家具屋の店先に無人販売のイチジク置かる           2017.10.9

    少年の声となりたる児の電話久しく逢わねば敬語の混じる        2017.10.24

    鴨遊ぶみずうみしずか沖合いを滑るごとくにミシガンのゆく     2017.12.4

    ひこばえも枯れし冬田に降り来たる野盗のごとき鴉の群れは     2018.1.15

    捨てられてハンドル錆びし自転車を弔うように綿雲の積む         2018.2.6

    スコップで四角に切りて放り上げ深き雪搔く納屋までの道         2018.2.19

    桜木の花芽やさしく抱くように早春の陽はおだやかに照る         2018.3.26

    馬鈴薯を植えしは確か今頃と去年の日誌を繰る春の夜                 2018.4.2

 

弓光山宗正寺の御縁記 

     抑々 此処の御厨子内ニ安置し奉る

    本尊十一面観世音菩薩ノ来由ヲ尋奉ルニ

    当寺開基大檀那御所尼ニと申奉ハ

    藤原鎌足公ノ御孫子ニテおわし満しケル者ニハ

    観世音之御告ニヨリ泰澄大師ニ銘じ

    かやノ木ヲ以テ作ラセタ満ヘル霊像なれハ右

    大将頼朝公仏供御寄付トなり 其作元亀

    年中兵火ノ為メニ一宇不残焼失スト雖

    トモ其像ニハ無恙阿らセたまへれハ 人皆

    喜意之袂ヲなりけりとなん 其後浅井備前

    御息女被観世音ヲ深ク信し尼トなり此寺ニ

    住た満へしが太閤秀吉公伏見恙桃山ニおこし

    ます時尼公御見過ニ参り月見ノ御殿ニ

    おひて昔之語り尓涙ヲ流し御別れヲ惜み

    た満ひ 再当地ニ帰り朝夕香華ヲ供養シ

    御経読誦志満へしが終に即死也 法名

    宗正院心月清玉大禅尼ト申ハ則チ此尼公ノ

    御墓なり 然ルニ秀吉公ヨリ徳門家代々

    御朱印ヲ被下置斯由所之霊像なれハ

    各々称名諸共ニ慎んて拝礼ヲ遂ケられま

    しう

                弓光山宗正寺

    明治廿四年十月十五日

梅村敦子さんの短歌(近江文芸より)

       夭逝の画家の自画像切なげにあと数日で終戦なるに        2017.8.20

       竹林の闇より聞ゆる法師蝉あと幾日の命つなぐや            2017.9.3

       車内にて大声嚥下強化策パパパカカカタタタ                   2017.11.26