海津村史料 #30 大日本地名辞書より

大日本地名辞書 吉田東伍氏著 明治四十年十一月刊行 冨山房

高島郡 北は若狭及越前の国界を限り 東は湖水及び伊香郡に至り 西は丹波南山城及滋賀郡に至る  西近江の北部にて中世以降は江北の屬都なり 朽木谷は安曇川の上游に在りて山谷頗る広し 高島は今都衛を今津村に置き十七村を管治す 人口五万二千 面積四十余方里 高島郡 和名抄 太加え之万と訓み十郷に分つ 日本書記継体元年の条に高島郡とあるは追書なれど天皇は此地高島宮の御座しませるより高島の名は著はれしなり 釋紀に上宮記を引き弥乎(ミヲ)国高島宮とふなり 弥乎は一に三尾に作りこの地の旧総名なる也 高島鉄穴 今詳ならず 続紀 天平宝字五年 賜大師藤原恵美押勝朝臣 近江国浅井郡高島郡鉄穴 各一所

海津 西近江路湖北の一埠頭なり 今海津村と曰ふ 今津の北弐里余 伊香郡界ある大崎の西北湾にあり 大崎は湖中に突出すこと三十町許 怪厳古木多く湖北の奇観なり 海津駅より愛発山を踰ゆるを七里半越といふ 敦賀港まで七里半の程なればなり 海津 塩津は湖北の水駅にて古より並び称せらる 近世の事なれど長唄色香の詞中に「遙に此に三越路々塩津海津にどれ〱それあれ〱はりがうら釣するあまのうけなれて 心ひとつを定めかね 敦賀おまんの吸付煙草」など見ゆ 塩津貝津の娼家の事を咏ぜるならん   あらち山雪消のそらになるまゝに かい津の里にみぞれふりつゝ 〔堀後百首〕仲実参考本盛衰記云 養和二年征討使の軍兵近江の湖を隔て東西より下る 西路には今津海津を打過て荒乳の中山に懸て天熊国堺匹壇三口行越て敦賀津に着にけり 〇温故録云 海津は昔万貫長者と云富人ありて其遺跡存す 又温泉あり又湯屋谷といふ 〇神祇志料云 延喜式小野神社今海津の中小路こる上尾山に在り 海津小野神社といふ 盖小野臣族の祭る所の神なり 又延喜式大前神社は中小路の大崎山に在り 按に大前神は彼岬角の鎮守なり 其上方の嶺上に大崎寺あり

鞆結郷 和名抄 高島郡鞆結郷 訓止毛由比 〇今の海津村剣熊村西庄村あるなり 剣熊村大字浦は即古の鞆結駅あり 〇慈恵僧正遺告云 九間二面屋材木一具 鞆結庄所進 又鞆結庄一所 所領田地六十余町 此庄元角好文先祖領也 故判事大屢武運口入相添本公験永施入了

劒熊 古の鞆結にして中世以降剣熊(一作見之曲)に改む 海津村の西北にして敦賀に通ずる山隘を曰ふ 今剣熊村と称し大字浦小荒路在原などあり 〇剣熊関は德川幕府の時 和洲郡山藩の戍所にして西近江路の要害をなせり 古は愛発関を山北敦賀郡に置けり 而して鞆結駅に小荒路の字あるは愛発山両国の界嶺にして南北に跨がるを以ており 〇延喜式 鞆結神社 大荒比古神社幷に今浦村に鎮座す 大荒比古は盖荒路山の神の謂あり 延喜式 鞆結駅馬九疋盖 南山巡狩録云 建武三年十月十二日に北国下向の官軍春宮を供奉参らせはるゞと旅行し後陣に打ける阿野土居得能が三百騎の勢 見ノ曲といふ所にて前陣におくれ 塩津の北に出でけるを 佐々木が一族熊谷の者共取囲て打取る云々 (按に盛衰記太平記幷天之曲に作る 此天を見に転ずる事其の故を知らず)

牧野 剣熊村の西 今開田寺久保蛭口の緒村全同じ西庄村と改む 牧野より西北栗柄山を越えて若狭国三方郡に通ずる山径あり 〇興地誌略に「牧野に古墳あり大塚にして小山の如し 其傍に小塚二在り 善積出羽守斉頼の墓なりと云へり 其大塚山の如し」と云ふ 是は猶古代のものにて斎頼時代の墓にあらざる也 (善積郷参看)

大處郷 和名抄 高島郡大處郷 〇今詳ならず 鞆結郷の南する百瀬村にて神祇志料云 延喜式大処神社今森西村に在りと 森西は百瀬の大字なり

百瀬川 今此水岬の大字森西知内等を合同し百瀬村と云ふなり 西庄村栗柄村より発し東流相合同して南流知内に至り湖水に帰す 長一里

知内 今百瀬村の大字あり 延喜式大川神社あり 知内川は剣熊村荒路山中より発し知内に至り湖中に注ぐ 長三里