「歴史街道をたどる 121 湖の道 海津」(京都新聞滋賀版2018年9月2日)について

「----大谷吉継が、中ノ川を新たに開削して奥田湖に船を停泊できるようにした----」

 ①「東町 / 里老語云 古ヘ此町ニ川アリ 邑後ノ沼水ヲ湖ニ注グ 東山ノ麓ヨリ五六十間許西南也。大谷氏中ノ川ヲ掘玉フ 後其川跡人家トナリト云々」

②「中村町ト中小路町トノ間ニ新川ヲ掘テ 沼水譜ヲ湖ニ注キ 其傍ニ宅地ヲ築キ 家臣ヲ守ラシム 今其宅地ヲ殿屋鋪ト云 川ヲ中ノ川ト号ス」(谷田家所蔵『閑窓随筆』「一 地理」の内「江州高島郡村落地理考」の海津東庄の項より)

 大谷形部少輔による海津湊に係る土木工事は ① 清水谷近辺の山々ヲ源流として奥田沼などの湿地帯を形成し、東町の中心部を経て湖に注ぐ「清水川」を堰き止め、その沼水を西内沼に誘導し、そして、② 巨大化した西内沼に湖からの大型船舶の出入りが可能な運河を開削(中ノ川)したことです。

「その後、加賀藩がこの地を領することになり、本格的に整備された」

この工事によって海津湊はインフラとしては完成の域に達し、加賀藩が本格的に整備したという記録を知りません、と云うよりもこれらを加賀藩に出入りの磯源など商人が積極的に活用した、という事ではないのでしょうか。「この地」とは海津三町(東町、中村町、中小路町)を指すのであれば、それは誤りです。加賀藩の領した地はその内の西中村町を除く中村町のみです。

「その場所(マキノ東小学校)に、加賀藩海津屋敷が置かれ」

この「殿屋鋪」に加賀藩が屋敷を構えたことはありません。中ノ川を挟む西中村町と中小路町は幕府直轄、大和郡山の柳沢家にと変遷しましたので、加賀藩の何れの施設等も置かれることはありえませんでした。中村町の旧海津村役場跡に、それはありました。

なお、金丸又右衛門は近江に二万石余を領し、西与一左衛門は確か二百俵余の下級官僚にすぎません。西と金丸が「ともに」と表現されるのであれば、当時のリアルとはかけ離れています。